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第8回:ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル

Bhimrao Ramji Ambedkar1891414 - 1956126日)

 

 

 

生い立ち

イギリス植民地統治下の中央地区(Central Provinces、現在のマディヤ・プラデシュ(Madhya Pradesh州)マウー(Mhow)にあったカントンメントで、父ラームジー・サクパール(Ramji Sakpal)と母ビーマバイ(Bhimabai)の14人兄弟の末っ子として生まれる。ただし、成人したのは2人の兄と2人の姉、そして末っ子のビームだけであった。ちなみに、このマウーは、現在アンベードカルを記念してDr. Ambedkar Nagarと改名されている。父親はラトナギリ(Ratnagiri)地方アムババデ(Ambavade)村の出身あった。したがって、彼のもともとの名前は、ビーム・アムババデカルである。一家は、この地方の最大の不可触民―アンベードカルの用語に従えばダリット―であるマハール(Maharに属し、カビール派を信仰していた。カビール派は、イスラム教の影響を受け、カースト批判や一神教等の思想を持つ改革派であり、ヒンドゥー教徒のなかでも低カーストに信者が多い。マハールは、コミュニティにおいて村の見張番、村道の清掃、村の会堂や壁の修繕、他村への使走り(死亡通知など)、旅商の道案内や護衛、火葬場への薪の運搬、春祭りの祭火の点灯、村神の祠の管理、結婚式の雑役、農業労働などのほか、死牛の運搬、皮剥ぎを担った。死牛の処理とその肉食が不浄な行為と見なされて不可触民に属するものとされている。このような不可触民は、なんらかの理由で穢れているとされて、神聖であるべき寺院への立ち入りが許されず、また清浄であるべき貯水池や井戸を自由に使うこともできないのである。

このマハールはマハーラシュトラの先住民族であり、マハール戦士族と呼ばれていた勇猛果敢で優秀な体躯に恵まれた集団であった。マハールの語源は、マハー・アリ(偉大なる敵)に由来するとも言われている。したがって、彼らの多くは東インド会社の傭兵(いわゆるセポイ)として活躍することになる。実際に、アンベードカルの祖父であるマーロージ(Maloji)も、父も東インド会社に軍人として勤めていた。注目しておくべきことは、傭兵および家族が教育を受けていることを要求していたことであり、そのために学校を運営していたことである。そして、ビームの父は、東インド会社の下士官であり、14年間その学校の校長を勤めたのである。

 

 

 

教育

ビームが2歳のとき、財政的理由でマハールを雇わないという決定にしたがい、父が離職を余儀なくされる。そして、一家はダポリやボンベイに職を求めてさまようことになってしまった。ようやく、ビームが6歳のとき、父がサーターラー(Satara)にある軍兵舎に仕事を見つけることができ、転居する。

ビームの父は、もちろん教育の重要性を十分に知っており、子供たちを学校に通わせた。ビームは、幼少のころから頭角をあらわす。しかし、学校では様々な差別を受け、自身が不可触民であるということを思い知らされ、カースト制の厚い壁を身をもって体験する日々であった。ともかくも、ビームは、サーターラーで初等教育を終え、高校に入学する。しかし、ここでも日常的に教師や生徒から差別を受けた。唯一といってもいい救いは、彼の才能を認め、活発な明るい心に感服したバラモンの教師の存在である。この時、アンベードカルという苗字のブラーミンの教師が、ビームの活発な明るい心に感服し、愛してくれた。そして、ビームの苗字を、学校の書類にはアンベードカルと記載したのである。そして、このアンベードカルが、この後のビームの苗字となることとなったのである。ビームは生涯にわたって、この教師を慕いつづけたという。

高校の途中で、子どもたちをもっといい環境で勉強させようと、一家はボンベイ(ムンバイ)へと転居し、兄のアーナンドラとビームはマラータ高校に入学する。さらに、相変わらず極貧の生活であったが、教育熱心な父の計らいで、ビームは数ヶ月後には名門のエルフィンストーン高校(Elphinstone High School)に転校する。

1907年に同校を卒業し、大学入学資格試験にも合格する。ビームは、高校を中退して働く兄の支援もあって、家族の希望の星としてエルフィンストーン・カレッジ(Elphinstone College)に入学する。不可触民としては初めてのことだった。しかし、健康を害して一年間休学せざるをえず、中間試験をパスしたところで一家の財政は行き詰まってしまった。それを知った父親の友人でマラーティ語作家のケールスカル(Dada Keluskarが、バローダBaroda、現在は植民地化される以前の名称に復してヴァドーダラVadodara藩王国のマハラジャ、サヤジー・ラオ・ガエクワード3世(Sayaji Rao Gaekwad V)に奨学金を提供してくれるようかけあってくれた。このマハラジャは、1883年にいちはやく不可触民のための学校を創設するなど、不可触民制の問題に深い関心を持つ開明君主として知られていたのである。

ビームは、1912年に大学卒業試験にパスし、政治学と経済学の学士号(B.A.)を取得して卒業した。そして、彼に奨学金を支援してくれたバローダ藩王国政府に就職し、軍下級将校に任官する。しかし、父の死もあり、半月ほどで辞職した。ところが、さらに幸運が巡ってくる。マハラジャが数人の学生を選抜してアメリカに留学させる計画を立て、ビームに応募するよう薦めてくれたのである。ビームが類い希な資質を持っていたにしても、それは全く夢のようなチャンスであった。19136月、バローダ藩王国から、留学終了後の10年間藩王国のために働く条件で奨学金を受けた。

1913年から1916年の間、ニューヨークのコロンビア大学で、経済学、社会学、歴史学、哲学、人類学、政治学を研究した。いわれなき差別のない自由を謳歌するかのように懸命に研究を続けた。一説によれば、一日18時間研究を続けたという。1915年に「古代インドの商業」という論文で修士号(MA)を取得した。ついで、1916年には「インドにおけるカースト。その機構、起源並びに変化」を人類学セミナーで発表した。次いで発表した「インドの国益−歴史的・分析的研究(National Dividend for India: A Historical and Analytical Study.)」は、1925に補筆されて『英領インドにおける地方財政の発達』としてロンドンのP.S. King and Son, Ltdから出版されることになる。そして、これによって1928年にコロンビア大学から正式に博士号(Ph.D. in economics)を授与されることになる。ビームは、19166月に政治学と経済学を研究するため、その学問の中心地であるロンドンへと渡る。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(the London School of Economics and Political Science, London School of Economics, LSEで経済学の研究を始める一方で、同年の10月にはグレイズ・イン法学院(Gray's Inn Law School)への入学して弁護士資格取得の準備を始める残念ながら、奨学金支給期間の終了を理由に帰国命令が下ってしまい、1917821日に学業半ばで帰国せざるをえなかった。

なお、1952615日にコロンビア大学から、1953112日にオスマニア大学からそれぞれ名誉法学博士(LL.D.)を授与されている。

 

 

 

不可触民制度との戦い

バローダ藩王国は、アンベードカルに対して軍書記官という高いポストを用意してくれた。将来は財務長官へという思惑を込めたものであった。しかし、事務所の召使いたちでさえ、書類を彼に手渡そうとしないなど、相変わらず差別的態度をとり続けたのであった。そもそもが、彼は住む家すら貸してもらえなくなってしまったのである。このような差別にたまりかねて11月中旬に辞職して、ボンベイに戻る。ようやく、ロンドン時代の知己で、前ボンベイ総督シドナム卿の推薦を得て、ボンベイのシドナム・カレッジ(Sydenham College)の非常勤講師の職を得ることができた。

その後、ビームはマハーラシュトラのコルハープル(Kolhapur)藩王シャーフー(Shahu Chhatrapati Maharaj Sahib Bahadur)の知遇を得て、1920131日に、マラーティ語の隔週刊の新聞「Mook Nayak(声なきものたちの指導者)」を創刊し、不可触民解放運動に本格的にデビューする。シャーフーも、不可触民制の廃止と福祉向上に深い関心を持ち、実践する開明的なマハラジャの一人であった。その創刊号に彼は次のように書いた。

 

 「インド社会は不平等社会である。ヒンドゥー社会は多くの階から成る塔のようなものだ。それは外に出る階段もドアもない。人はその生まれた階の中で一生を終えるしかない。ヒンドゥー社会は3つの要素から成り立っている。ブラーミン、非ブラーミンそして不可触民である。」「動物の中にも、生命あるもの全てに神は宿るというと信じている人々が、その一方で同じ宗教をもつ同胞を触れるべきではない、と言うのだ。」

 

19203月、コルハープル藩王国マーンガオン(Mangaon)で藩王シャーフー臨席の下で開催された不可触民大会で、ビームは議長を務める。そして、マハラジャ・シャーフーは大会で「諸君はアンベードカルという救世者を見出した。」として賞賛する。また、同年5月、シャーフーが議長を務めたナグプール(Nagpur)での第一回全インド不可触民大会では演説者として、不可触民の政治的権利を自身の手で手に入れることを主張した。ビームは不可触民の心を掌握するとともに、非抑圧者階級の団結のリーダーとなっていく。

19207月、2年間節約して蓄えた貯金とマハラジャ・シャーフーの援助、友人のナーヴァル・バーテーナからの借金を元手に、再渡英を果たす。そして、3年前に中断せざるをえなかった弁護士資格取得と、経済学研究を再開する。はやくも、19216月には「英領インドにおける帝国財政の地方分散化」で修士号を取得し、翌1922年にはバリスター(上級法廷弁護士)の資格を取得した。しかも、その10月には「ルピーの問題」を博士論文としてロンドン大学に提出している。しかし、この論文の一部が、帝国主義的傾向の審査員の間で内容が問題視され、当該箇所の書き直しを迫られることになった。ロンドンでの生活を完全に終える前に、ドイツで3ヶ月を過ごし、ボン大学で経済学をさらに深く学んだ。もはや、資金的余裕はなく、帰国途上の船上で手直しをし、ボンベイから送付された。もちろん、正式に受領され、1923年にロンドン大学から博士号(D.Sc. in Economics and Commerce)が授与された。この『ルピーの問題(The Problem of Rupee—Its Origin and Solution)』は、同年12月にロンドンのP.S. King and Son, Ltdから出版され、非常に高く評価されることになる。

19234に帰国後、ボンベイを拠点にして、活発な活動を開始する。7月には、友人のナーヴァル・バーテーナの資金援助でボンベイの高等裁判所の上級法廷弁護士として開業する。また、ボンベイ大学フェローとして経済学と法律学の試験官としても活躍する。

19247月には、被抑圧者救済会(バヒシュクリット・ヒタカーリニー・サバー)の組織を手助けし、その理事長になった。この組織の目的は不可触民と低いカーストの人々への教育の普及と雇用の促進「留保措置」など)、その経済的状況の改善、そしてかれらの不満に声を与えることだった。

そして、社会運動家・政治家・ジャーナリスト・教育者などの多彩な活動をとおして、生涯、反カースト・不可触民の地位向上に献身していくことになる。すなわち、様々な公的組織に対して不可触民について証言し、新聞を発行する。

1926年には、ボンベイ州立法参事会員に留保された被抑圧階級議員として指名されると、すぐに指導的な役割を担うようになる。

1927年から1932年の間、支持者とともにナーシク(Nasik)のヒンドゥー寺院であるカーラーラーム寺院への立ち入りと、公共の貯水池(コラバ郡マハード市(Mahad Municipality in Colaba districtのチャウダール貯水池(Chowdar Tank)や井戸の利用についての不可触民の権利の確認を求めた非暴力運動を推進した。この2つの運動は特別な重要性を持っており、どちらも数万人の不可触民のサッティヤーグラヒー(非暴力抵抗者)たちが参加した。一方で、カースト・ヒンドゥーたちは暴力的な反応を示した。チャウダール貯水池への立ち入り運動は、数年にわたる訴訟を経て、法的に勝利する。

19286月、ボンベイの公立法科大学の教授に就任する。まもなくイギリスがインドにどの程度の自治を認めるかを調査するためサイモン委員会を派遣した。この委員会にはインド人の代表が加えられていなかった。国民会議派はボイコットし、全インドで委員会への反対運動が起こった。しかし、アンベードカルはサイモン委員会に協力し、成人普通選挙の場合では不可触民留保議席を求め、成人普通選挙でない場合では不可触民分離選挙を求めた。分離選挙とは、不可触民が独自の候補者を立てて、かつ、独自の選挙を不可触民だけの選挙区内で実施しようという方法である。

19302月に、イギリスがインド統治法を改正するために第一次円卓会議をロンドンで開催した際に、被抑圧階級の代表として出席する。国民会議派に「イギリスの犬」と罵られたが、不可触民のための分離選挙制と政治的保護を訴えた。19319月に、第二次円卓会議が開催された際には、出発する前日にガンディーと会見をする。そして、分離選挙の必要性を主張するアンベードカルと、不可触民のカースト・ヒンドゥーからの政治的分離は自殺行為として分離選挙に反対するガンディーとは決別する。ガンディーは、カースト・ヒンドゥーが不可触民に対する態度を変えることが基本だと考え、アンベードカルは不可触民自身が立ちあがり、カースト社会を変えるべきだと考えたのである。

1932 8月、イギリス首相マクドナルドがコミュナル裁定を出し、分離選挙を認める。これに対して、ガンディーは、920日、民族運動の立場からこれに反対し、分離選挙を撤回させるために「死に至る断食」を始める。ハンストを開始してまもなく、ガンディーの健康状態が期待通り悪化する。そして、ネルーやラジェンドラ・プラサドといった国民会議派の指導者たちが、急遽、アンベードカルに接触し、もしガンディーが死ぬようなことがあったら、不可触民はもっと虐待されることになるであろうと、分離選挙の撤回を迫るのである。このため、922日に、アンベードカルはやむなくガンディーが幽閉されていたプーナ(現在の呼び方はプネ)まで出向いて会談し、24日に「プーナ協定」を結ばざるをえなかった。国会に10%の議席を留保するという譲歩と引き換えに、分離選挙を撤回するという合意である。このように、独立達成よりも社会改革を優先させるという立場から、ガンディーの指導する国民会議派の民族独立闘争を批判するが、独立の大義のために妥協を強いられ続けた。まさに、ガンディーは不可触民の「公然の敵」だったのである。アンベードカルは、こう言っている。

 

「マハトマは束の間の幻影のように、人を迷わすが、実際には何も変えはしないということを歴史は証明するでしょう」。

 

そしてついに不可触民制を是認するヒンドゥー教を棄てることを決意し、19351013日、1万人の不可触民を集めたイエオラの大会で改宗予定宣言をする。しかし、この時はまだ、代わりの宗教が決められていたわけではなかった。また、その後、政治家としてまさに公私にわたって多忙をきわめたこともあって、21年間、この宣言が実行されることはなかった。

1941 7月、総督により行政参事会の一員に加えられる。1942年からは、労働担当大臣に就任する。

独立後、ネルー内閣の初代の法相をもつとめる。また、1947829日、制憲議会は憲法草案起草委員会を任命し、ビームをその議長に指名する。 そして、この憲法草案は、ほとんどビーム一人で起草することになってしまう。委員会のメンバーだったT. T. クリシュナマチャリが語っている。

 

 「七人憲法起草委員のうち、一人は辞任し交替した。一人は死亡したが、代わりがいなかった。一人はアメリカに行っており、その補充はない。他の一人は政府の仕事に忙殺され、空席同様だった。他の二人は、デリーから遠く離れたところにおり、多分健康のためだろうが、委員会にまるで顔を出さない。結果として、アンベードカル博士はひとりで憲法の草案を準備するという全くの重荷を運ばねばならなかった。彼のやった仕事はまことに立派だ。」

 

 19482月の終わりに、草案は仕上げられ、制憲議会議長に提出された。そして、半年間公示され114日に上程された。草案は3158付帯条項から成っていた。憲法条文は審議され、”アンタッチャビリティー”を廃止する箇所は1129日に承認された。アンベードカルの戦いは彼自身の生涯のうちに実を結んだのである。

その第17条(「不可触民制」の廃止)において「「不可触民制」は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。「不可触民制」より生ずる無資格を強制することは、法律により処罰される犯罪である)」と不可触民制を禁止し、カーストによる差別も禁止している。また、それ以外にも不可触民への保護条項、違反者への処罰等を含ませた。一方、従来の主張である分離選挙を撤回し、「プーナ協定」に沿った留保議席・合同選挙案を入れた。他にも不可触民への社会的ボイコット禁止規定を入れようとしたが、憲法の条項としては受け入れられなかった。

19495月に制憲議会は再開され、審議を重ね1126日にインド国民の名において、インド憲法草案を採択した。アンベードカルは、古代インドの偉大な立法者であったマヌになぞらえてモダーン・マヌと呼ばれるようになった。

続いて、ヒンドゥー教徒に関する民法(Hindu Code)の改正へと着手する。1951年に、改正法案を上程した。しかし、この法案は全ヒンドゥー教徒に近代的・民主的な、家族法を適用しようとしたために保守派のカースト・ヒンドゥーから強い反対を受ける。不可触民の権利が守られ、上位カーストの利益が削られるからである。このため国民会議派政権内部でも孤立し、最終的にはNehru首相とも対立し、法案は廃案となった。このことに失望し、法務大臣を辞任、野党から総選挙に出馬するも、国民会議派に敗北、という、波乱が続く。

 

 

 

http://www.dnp.co.jp/artscape/image/shim.gif新仏教指導者

 1907年、大学入学資格検定試験合格を祝う会の席で、父親の友人でマラーティ語作家のケールスカル(Dada Keluskar)から自著『ブッダの生涯(Bagwan Gautam Buddhache Caritra)』を贈られている。しかし、1930年代に至るまで、仏教に関心を持つということはなかった。

また、アンベードカルは、アメリカ、そしてイギリスでの留学中に、専門とする経済学だけでなく広く社会科学を学んだことであろう。とくに、第一回目のイギリス滞在中の1917年には、ロシア革命が起り、人類史上初の社会主義国家が出現した。貧困と差別に苦しむ世界の多くの人々にとって、資本家階級を打ち倒して樹立された労働者階級の国家、ソビエト連邦は希望の星となろうとしていた。また、平等を掲げる共産主義こそ、貧困と差別を克服する手段であると歓迎されはじめていた。したがって、アンベードカルは、不可触民解放の方法としてマルクス主義という思想、あるいは共産主義という政治を選択肢とすることもできたはずである。しかし、アンベードカルはそれをしなかった。それは、インドにおける共産主義は、カースト・ヒンドゥーが主体であり、不可触民のことなど眼中になかったからでもある。アンベードカルは、政治家としてそのエリート共産主義に辟易していたのである。そして、不可触民にとって宗教は廃棄されるべきものではなく、社会生活を営むうえでも、個人の救済にとっても不可欠のものだと認識していたからである。それだからこそ、ヒンドゥー教の改革が不可能であると悟ったとき、別の宗教への改宗の道を選んだのである。それにしても、それがなぜ仏教だったのであろうか? パンジャブを中心に信者の多いシーク教も、南インドを中心に信者の多いジャイナ教も、もともとヒンドゥー教の改革宗教である。また、インドのイスラム教徒やキリスト教徒の多くは、中世から近世にかけてコミュニティごと改宗したものだと言われている。それに対して、仏教は、ほとんど消滅状態にあったからである。ブッダがヴィシュヌ神の化身とされるなど、ヒンドゥー教の中にほぼ完全に飲み込まれて、独自の力を失っていたのである。

 したがって、アンベードカルの仏教への接近は、純粋に宗教的なものだったというより、ある程度政治的な意図が内包されていたとみるべき方が妥当であろう。カースト制を否定し、正統派のインド思想と対立した宗教であるという歴史的事実が、大きな意味を持ったことは疑えない。実際に、アンベードカル自身が、仏教を選択した理由として次の6つを指摘している。

1)仏教は不可触民制を産み出してきたヒンドゥー教およびカースト制度と闘ってきた宗教であり、自由、平等、友愛に基づく宗教である。

2)仏教はモラリティを本質とする宗教であり、現代科学のいかなる批判にも耐えうる合理性をもっている。

 (3)仏教は貧困を美化することなく、下層民の経済的向上を正当と認めている。

 (4)仏教はインドで生まれ、過去のインドで最も栄えた宗教であり、仏教への改宗がインドの文化の伝統を損なうことはない。

 (5)仏教は世界宗教としてインド以外で高い評価を受けており、改宗によって外国の仏教徒との連帯が生まれる。

 (6)仏教はマルクス主義に対抗できる唯一の宗教である。

 

それでも、不可触民の解放のリーダーとして、徐々に仏教へと傾斜していたのは事実である。すなわち、国民教育協会の議長として、下層民の教育向上にも尽力する。そして、1946年にボンベイに創設したものはシッダールタ・カレッジと命名され、1951年にオーランガバード郊外に設立したものは、ギリシア人仏教徒にちなんでミリンダ・カレッジと命名されているからである。このほか、数多くの教育機関、教育施設を創設している。結果として、背後に押しやられた人々が教育を受ける機会を創造したのであった。

また、1950年には、スリランカでの仏教徒会議に出席している。

 

1951年に、議会に絶望したアンベードカルは新たな決意をもって法務大臣を辞職した。その決意こそが仏教への改宗だったのである。「私はヒンドゥーに生まれたがヒンドゥーとして死ぬことはないだろう。」と以前から宣言していたことをついに実行する時がきたのである。ヒンドゥー主義は有害でこそあれ、何の役にも立たない、仏教こそがインド社会再生の思想たりうると確信し、インドの将来を託したのである。

 

 ついに、アンベードカルは仏教徒となることを決意した。この決意の真相を、彼の友人のダトパント・テンガディーに語っている。

 

 「私は人生の夕暮れにいる。われわれの人民の上に、世界の四方からの異なった国々から、思想の猛襲がある。この氾濫の中で、われわれの人民は混乱させられているのだ。激しく戦っている人民をこの国の主要な生命の流れから離そうとし、彼らを他の国々に引きつけようとする強い襲撃がある。この傾向はどんどん成長している。アンタッチャビリティーや貧困、不平等にうんざりした私の数人の仲間でさえ、この氾濫によってすでに洗い流されている。他の国々がどうだというのか?彼らは国の生命の主要な流れから遠ざかるべきではない。そして私は彼らに道を示さねばならない。われわれは経済的政治的生活に、いくつかの変革をなさねばならない。このことが私が仏教に帰依することを決心した理由だ。」

 

アンベードカルは、19561014に仏教に改宗すると宣言し、ともに改宗を望む者はマハーラーシュトラ州ナグプールに集まるよう呼びかけた。30万とも50万とも言われている不可触民(主にマハールの人々)が、アンベードカルの呼びかけに応じて各地から続々と集まった。すべての人々は白い衣服に身を包んでいた。アンベードカルはヒンドゥー教の神々をもはや崇拝せず、儀式も行なわないことを宣言し、仏教の八正道を厳守することを誓った。そして彼は、仏教に入信する者は起立せよ、と呼びかけた。その声に30万とも50万とも言われている人々が立ち上がり、入信を宣誓した。今日の新仏教運動の口火をきったナグプールの大改宗である。厳粛な式の後、アンベードカルは次のように宣言した。

 

 「不平等と迫害を容認する古い宗教・ヒンドゥー教を捨て、今ここに私たちは生まれ変わった。私はヒンドゥーの教えも哲学も信じない。仏陀も一ヒンドゥー神だとする説は誤りであり、かつ有害である。私はもはやヒンドゥーのいかなる神の信者でもない。私はシュラーッダ(ヒンドゥー教の祖霊祭)を行わない。私は仏陀の教えを守る。仏教は真の宗教である。私たちは智識と正道と慈愛の原理に導かれた人生を今後歩むであろう。」

 

ナグプールは、インド密教の祖、ナーガールジュナ(竜樹)が2〜3世紀ごろ、教えを広めたとされる地である。すなわち、「竜宮城」である。厳密に言えば、ナーガールジュナに関するインド原典での伝記が存在しないため史学的に厳密な生涯は不詳である。最初の密教経典が発見されたと経典に記述のある地が、ナグプールなのである。この改宗広場(ディキシャブーミ)には、巨大なドーム状の改宗記念堂が設けられている。そして、この日を記念して毎年開催される式典は、インド仏教徒最大の聖なる祭りとなっている。

しかし、約2月後の126日、急逝してしまう。多くの人々が葬送の列を見守った。そして、彼らの悲しみと敬慕の念を表した。50万人の人々が最後の儀式に立ち会った。

彼は世界で最も崇敬されている指導者の一人であり、「Babasaheb(バーバー・サーハブ)」即ち「師父」(baba は父、saheb は敬称)と支持者たちに呼ばれている。また、アンベードカルの名を示す「Jai Bhim!」(Bhimrao)が、敬愛を込めて挨拶に使用される。1990年にはBharat Ratna の称号が彼に与えられている。そして、彼の誕生日である414日はDr.Babasaheb Ambedkar Jayantiとして、インドの祝祭日になっている。

彼の彫像は、他のどの指導者や神格の彫像よりもその数で圧倒している。もちろん、国会議事堂(Lok Sabha)の前にも建立されている。また、彼の名を冠した公共機関、学校や施設は多数に上っている。

 

 

 

おわりに

なぜにか、高校までの教科書に出てこないのだけれども、現代史において最も重要な人物だと思う。

その名前を、私自身は、最初の大学院を修了した後に着任した某高校で「世界地誌」を担当した時、受講生のT君から、教えられた。(この某高校はさまざまな意味でユニークであった。地理の領域では、コア教科が主にヨーロッパ・北アメリカを担当するので、世界地誌は必然的に「第三世界」を担当した。また、コア教科以外は、その科目を希望する受講生との話し合いによって内容を決めてよく、レポート提出で成績評価してもよかった。したがって、概説で終わるのではなく、専門書や新聞記事を使用するなどして、かなり詳細な内容にまでふみこんでいけた。たぶん、大学の専門科目なみのレベルにあったと思う。)そして、荒松雄、小谷汪之、山崎元一、渡辺建夫、山際素男といった諸氏の文献をむさぼり読むことになった。とくに、山際素男氏が精緻に描き出してくれる「現実」には深い感銘を受けた。とくに、ガンディーの欺瞞性の一方で、アンベードカルのひたむきな姿勢に感動することになった。

 このような感動のきっかけを作ってくれたT君は不慮の死をとげてしまった。また、多くの著作で不可触民の問題を白日のもとに曝してくださった山際素男氏もまた亡くられてしまった。合掌

 

ところで、このページも、参照やら、引用やらされている。公開している以上、どのように利用されてもかまわない。ただし、小生は特定の宗教や政治に寄与・貢献したいとは思っていないことだけは宣言しておく。純粋に、アンベードカルの生きざまに感銘し、彼のことをできるだけ知って欲しいと願っているだけである。したがって、できるだけの原典資料にあたって、内容には正確を期したつもりである。

 

 アンベードカルのことをもっと知りたいという方に:

Dr.B.R.Ambedkar And His People

 

Dr Ambedkar Foundation

 

Freeindia/biographies - Dr.B.R.Ambedkar

 

 しかし、そこは世の常、こういう人物を利用しようとしている人物・団体があるのも事実である。そのためにか、その団体関係者と覚しき人たちのブログで、アンベードカルを盛んに取り上げておられるようだ。インドでの仏教徒の拡大の動きを自らの宗派拡大の絶好の機会とお考えのようで、彼らの信奉する人物(世界中の大学に寄付金を配り、その領収書として名誉博士号を集めている人)と重ね合わせることを試みられている。アンベードカルは、社会改革のための手段として仏教への改宗を決断したのである。いっしょにしないで欲しい。

Last Modified: 2009.05.15

 

 

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